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有頂天日記 8月25日

【有頂天家族】第八話『父の発つ日』をご視聴いただきましてありがとうございました。
「泣けた」という反響が多かったですね。
総一郎と赤玉先生の別れのシーンが沁みますなあ。
僕も原作の第五章を読んだときから泣けたので、このシーンの映像は楽しみでした。

「なるほど。乳ではなく、父か…」
人力車の車夫の首が180度回転しているのも好きです。
この人力車は矢一郎が父から譲り受けた宝物ですからね。
きっと父も乳が好きだったのでしょう。

そんな訳で、本日の写真はラストスパートの本社です。

先週の水曜日にオーディオコメンタリーの収録がありまして。

「こんな立派な父親を持った子どもたちは大変だろうな」
森見登美彦氏がぽつりと笑っておりました。
そうなんです。僕の引っかかっている謎はそこなんです。

 【有頂天家族】には未解決の謎がいっぱいあります。
ネタバレになるので今は書けない謎もあるけれど、第八話視聴後にも次々と『?』が湧いてくる。

総一郎が矢二郎に言った「なんとかしてみよう」とはどんな策だったのか?
なにゆえ子どもは四人で、しかもみんな男なのか?
なにゆえ矢二郎が選んだのは蛙だったのか? 
なにゆえ冥界に通じる井戸を選んだのか?
なにゆえ森見登美彦氏は偉大な総一郎を鍋に落とさなければならなかったのか?
偉大な父の死は子どもたち、あるいは森見登美彦氏にとってどんな意味があるのか?

僕の興味は刺激され、『?』の答えを導くために勝手に物語を妄想する。
これがこの作品の魅力の一つですね。
その『?』は、ひょっとすると【有頂天家族】第二部、第三部で明らかになることがあるかもしれないけれど、自分の経験に照らし合わせて腑に落ちる『?』の答えを探るのは面白いものです。
用意された解答があるわけではない。
人それぞれの『?』の答えを促す鷹揚な器がこの王道物語にはあるのです。

 えーと、今回は第八話の視聴を終えて、父であり洛中狸界の王、偽右衛門でもあった偉大な下鴨総一郎と四人の息子たちのことを考えてみます。

森見登美彦氏は、下鴨四兄弟それぞれの中に自分の一部があると言います。
父総一郎は「おまえたちに俺は四つの血を分けた」と矢二郎に語ります。
ということは、父と子の親子関係ではなく、森見先生自身の中の父的な部分と、
ちょっと残念な子供たちの部分の関係という見方もできないかしらん?
と思いまして。

この関係は、一人の人間の意識を司る自我と、個人的無意識に潜むコンプレックスとの関係にも似ていると思うんですね。
コンプレックスは劣等感と訳すのかと思っていましたがこれは違うようです。
それは劣等感コンプレックスというのだそうですが、長くなるので省きます。
どうやらコンプレックスは無ければよいかというとそういうものじゃないらしい。
内面に抱えるコンプレックスを自我が制御、統合していく過程を経て人間は成長するのだそうです。

 僕の身近な制作現場に置き換えてみると、監督とスタッフの関係にも置き換えられますね。
いろんなスタッフが参加して、みんなそれぞれに好みや主張があって、その複合体(コンプレックス)が作品の制作チームである。
その中で全体の共通認識を作りながら一つの纏まりに繋ぎとめているのが監督の方針なんですね。
監督がチーム全体の意識を司る自我ということになります。
自我がコンプレックスを制御する力が弱いと、精神のバランスが崩れるように、監督の統率力が弱ければ、スタッフのバラバラな主張を調整できなかったり、力関係のバランスが崩れて制作チームとして機能しなくなる。

だからと言ってコンプレックスを潰してしまっては、自我との間に前向きな統合と成長が見込めないように、監督とスタッフの間に良い相乗効果は生まれないのです。
時間をかけて牛乳と珈琲の配分を探りながら、珈琲牛乳ができるまで何度も腹を下しながら「運命の出逢い」を待たなければなりません。

 「こんな立派な父親を持った子どもたちは大変だろうな」
というのもなんとなく解かりますよね。
あまりに自我が制御する力が強すぎては、コンプレックスを力で抑え込んでしまうように、監督の統制力が強すぎたり、スタッフの創作エネルギーを必要としないような天才監督では、スタッフから監督に流れる創作意欲を抑制してしまうってことに置き換えられるのかなあ。
何事も制作現場に置き換えないと理解できない頭で考えるとそうなります。

そういえば、先日の吉原監督との対談で森見先生が言われていたことを思い出しました。

自分の頭の中で考えたものだけで作っていたら底の浅い物語になってしまう。
自分の意識していない、もっと無意識の部分から湧き上がってくるものを大切にしたいと。

森見登美彦氏自身が内部に抱えている総一郎と下鴨四兄弟を、この森見作品の創作手法に置き換えるとどうなるだろう。
小説家として創作はこうあるべきだという理想が総一郎で、無意識から湧き上がる阿呆パワーが下鴨四兄弟であるとするならば。
森見登美彦氏の総一郎に対する強い憧れと、その統制によって阿呆パワーとの「運命の出逢い」が損なわれることを嫌う抵抗。
森見先生は自身の中にある理想の総一郎像に対してアンビバレントな気持ちを抱えているのかしらん?

ああ、そうか!
それで森見登美彦氏は自分の創作スタイルを貫くために、自らの手で憧れの理想を鍋に落してサヨナラしたのではないか。
自分の中にある理想を葬ってまでも、阿呆パワーの生命力を大切にしたかったのではないか!

もちろん、先生に訊けばそんなことは考えたことも無いと言われるでしょうけれど、これは僕の『?』の答えを導く妄想の物語だからいいのです!

 そして、この物語に続きがあるとすれば、憧れの総一郎を失った大きな悲しみと苦しみの後に、森見登美彦氏の中にはいずれ第二の総一郎が誕生するはずです。
総一郎ほど理想的な狸じゃないけれど、無意識から湧き出る阿呆パワーを適度に制御しつつ、「頭の中で考えた物語」との運命の出逢いを上手く演出できる器の大きな狸がね。
それが狸界の死と再生の、物語の王道だと思うのです。
それが【有頂天家族】では、矢一郎なのか、あるいは矢三郎なのか、はたまた第三の狸の王の登場か!?

堀川

月, 8月 26 2013 » P.A.WORKS Blog

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